往復書簡

展覧会を終えて、企画者の秋吉が展示作家の伊藤、武内とそれぞれ文章を交わしました。

秋吉>>>伊藤、武内 /2013年3月4日

 

 伊藤君へ


 伊藤君の作品は部分的に見れば文字であり、立体とは言えないでしょう。しかし、会場内の壁や柱などに点在する万年筆で書かれた言葉の間には距離あり、そこに立体的な空間が生まれます。言葉で結ばれた空間は、言葉の意味や、筆跡に宿る伊藤君のパーソナリティに作用されながら、質量を持たずに独特の奥行きを深めます。
 また、小さな文字を探して歩いたり、読むために近づいたり、全体を見るために離れたりという鑑賞者の作業や、(今回は見られませんでしたが)「声にすること」という文字通り言葉を声にする伊藤君のプロジェクトは、身体性という点で彫刻と深く関係していると思います。
 彫刻が、「空間と関わる」ことを軸として、全方向に開かれているとするならば、これはその一つの極端ではないでしょうか。

 武内君へ

 今回の武内君の作品はしっかりと抵抗感のある物を作りながら、最終的なアウトプットとしては軽やかなひかりであると言う点が印象的です。明るい場所で見ると、実は非常に精密に作られていて硬質で、重量もあるオブジェがダイナミックに動いているのですが、その激しいエネルギーが質量の無い光の揺らぎに変換される様がとても鮮やかです。
 思い返してみると、「軽やかさ」というのは武内君の作品が昔から持ち続けている要素のひとつではないでしょうか。昔見せてもらった、本みたいな鉄のオブジェに始まり、部屋を覆うガーゼの作品、炸裂するBB弾の作品などどれも軽やかです。そしてそれらもまた、隠された激しいエネルギーによって支えられていたのではないでしょうか。

 最後に伊藤君と武内君に、二つ質問があります。

 一つ目は、物を作るときのサイズの決め方です。
 僕は自分の身体と、それに従う日常的で合理的な生活空間や時間を一つの基準にしています。それは一方で、宇宙や永遠といったスケールを意識しているからです。極大の空間や時間に対応するためには、極小の、最も個人的でささやかなことこそがふさわしいような気がしています。
 伊藤君や武内君は、物を作るときのサイズについて、何か基準にしていることはありますか?

 二つ目は、展覧会の企画についてです。
 今回僕は、「空間を可能性で満たすこと」をテーマに展覧会を企画しました。そしてできるだけ少ない質量で満たされた彫刻の展覧会を目指しました。もし伊藤君や武内君が彫刻を軸にした展覧会を企画するなら、どんな展覧会にしますか?

 秋吉かずき

伊藤>>>秋吉 /2013年3月7日 

 

 秋吉さま

 

 そうですね、ひとつの極端として、あるいはそれは自身のなかにある、彫刻に対する羨望のような距離感こそが、僕の作品に奥行きを与えてくれているのかもしれませんし、絵画や版画に対してもおなじような距離感を抱きつづけて、それらの文脈とどこかで関わりあうことのできる一線をさがしているふしがあります。それは小説や詩に対しても同様で、そもそも僕のやろうとしていることは、どこにも属することはできないけれど、おそらくどこにでも(適切な距離感を保つことができれば)、つまり全方向にふれることができるかもしれないという、ある空間または景色においての、ひとつの羨望のあらわれなのかもしれません。

 

 <サイズについて>

 サイズというのはすでにそこにある壁であったり、空間そのものがそなえているもので、その空間や景色にささやかに寄り添えたらと思いながら、僕の場合はサイズというよりも作品の構図を決めています。また、原稿用紙などの紙に書く際には、その用紙の大きさに対して、あるいは用紙がおさまる額やケースもふくめたところで、文章と余白の適切なバランスを見計らいながら構図を決めていますし、あくまでも空間ありきで、それら支持体のサイズによって作品が保たれるのだと思っています。

 

 <展覧会の企画について>

 畏れ多いという気持ちもありますが、いつか横須賀美術館で若林奮さんと二人展がしたいです。生前の若林さんとは面識もありませんでしたが、それぞれの作品の質感そのもの、言葉そのものが距離を保ちながら、弱さという強度もふくめて、あらわれることときえることが潮風のあたる美術館で露になるのではないかと、何年もずっとそのことを考えています。あるいはそのときがきたら、彫刻からの触手にようやくふれることができるかもしれないと、勝手ながら想像しています。

 

 いとう

武内>>>秋吉 /2013年3月20日

 

 秋吉君へ

 

 <サイズについて>

  作るときのサイズを決める前に、どのようなアウトプットにするのかという問題が僕の場合さきにあります。なにかを作るときの前提として、「第一にサイズの問題」というのは起こりにくい。(イレギュラーな場合としてサイズしばりのテーマ展示などありますが、ここでは置いておいて)ですので、サイズというのは後発的な要素として僕は捉えています。アイデア段階でおおよそのサイズのあたりがつくこともあれば、そうでないこともあります。アイデア段階でのサイズについてはとても漠然としたものとして考えていることが多いです。そのときは、秋吉君の言うように自分の身体スケールが判断の基準になることもあるように思いますが、あくまでアイデア段階なのであまりあてにはならないとも考えています。それから、マケットを作ったり、写真をプリントしたり、映像をプロジェクションしたりと、実際にアウトプットの練習をしていくときに、自分が対峙してはじめて判断してサイズを捉えていくことになります。このときの判断基準は自分自身うまくとらえることは難しいですが、かなり抽象的な判断をしています。物や空間や人とのバランスのなかで、一種の「気持ちよさ」のようなものを探す感覚です。この「気持ちよさ」はこれまで僕が経験してきたことを栄養にしてできてきた感覚といえます。ですので、判断基準としては様々な折り合いの中で自分を頼りにしていかざるをえない。経験に依って立つことで、判断基準は芯をふとくしていくことができるし、そのためにも「気持ちよさの例題」をたくさん集める必要があると考えています。また、作品に占める「作品要素としてのサイズ

の優先順位を大切にし、練習段階で判断している面もあります。たびたび僕は、サイズの表記を可変とすることがあるのですが、それは空間の総体を作品とすることを表明していることでもあります。作品は現実世界とつながっているものだと僕は思っています。作品と現実世界の区切りは暫定的なものでしかない。なので、ぎりぎりのところまで作品の端っこは現実に対してひろく接していたいと考えています。

 

 <展覧会の企画について>

 作品を知るために僕らが拠り所にしているもので、少なからず記録の存在があると思います。僕たちは、より多くの作家や作品について知るために、また遠方で開催されているプログラムについて知るために、カタログや雑誌などの写真、動画サイトやレヴューを頼りにしています。それは仕方のないことですし、そのような作品理解もあります。その点について僕は好意的に考えていますが、反対に作品の実物の経験というのも大切にしたいと思っています。実際にあこがれの作品をはじめて見たときに起きる情報とのギャップは、作品解釈を良くすることもありますし、はたまた悪くすることもあります。ドナルドジャッドの作品をはじめてみたときはその典型で、実際にその場に対峙しないと伝わってこない作品の質がありジャッドの気遣いが感じられ、それまでカタログから受けていた印象が一気に刷新されたことを覚えています。彫刻は本来、記録には向かないものだと僕は考えています。自明なとおり、三次元(あるいは、もっと複数の次元)を記録することには、現状どうしても限界があります。僕は記録を否定している訳ではなく、現場で起きている作品経験が、記録によっては全く補えないタイプの作品があると思っているということです。そして、彫刻ではそのような作品に出会うことが多い。そのような理由から、記録に残りにくい、あるいは記録に不向きな作品を並べてみることで、彫刻のモチベーションを伝えることができるかもしれないと考えています。現在は、家にいながらも作品を経験することができる世になっています。そのような状況をうまく落とし込んだ作品もありますし、その現状に悲観的になるつもりはありません。ただ、少し手間のかかる作品経験としての彫刻が世の中に発信できることがあるのではないでしょうか。ナマの素材あるいは現象、空間と同居することによってしか、得ることのできない発見がそこにはあるように思っています。

 

 武内優記